声を大にして「オリンピックを盾にして抗議するのは筋が違う。」と言いたいです。

森喜朗会長の失言に対して、色んな方々が、ボランティアをキャンセルされたり、聖火ランナーを辞したりされていますが、

そういう方々には、これから、行われたオリンピックにも、聖火ランナーやボランティアとして携わって欲しくありません。
それに、メダルを取って凱旋されたアスリートとも、テレビ番組で、易々と絡んで欲しくありません。


オリンピック=森喜朗会長と結び付けて、なんとかギャフンと言わせたい狙いもあるのでしょうが、それは、筋違いです。


では、尋ねます。


もし仮に、例えばなしとして、

 


聖火ランナーを、幼少期の頃から、家族連携で、家族の弟や妹といった兄弟の進学まで諦めてもらって何よりも優先させてきて、20年近くを、費やして寝食削って特訓してきて漸く世界トップに近付ける聖火ランナーになれたとして、


森会長の失言に反論するために、人生で一度か二度あるかないかの、その特訓の成果を世界で試す機会を、おいそれと辞退しますでしょうか?

ロンブー淳は、20年近く大好きで、テレビに出ていると一目置いた視点で見ていますし、亮への取り計らいも涙が出るくらい嬉しかったほどに尊敬するところも沢山沢山ありますが、今回の行為は反対です。


淳くらいの影響力になると、本当に世論が動くということに気付いて欲しいです。
気付いているから、こうした行為に出たのなら、淳らしくないです。

聖火ランナーとオリンピックを森会長になぞらえているから、こうした行為に及んだのでしょうが、「田んぼを走らせておけばいい」という、あの言葉を、仮に、芸人会の重鎮中の重鎮がオリンピックに携わっていたとして、20年家族とともに歩んで掴み取った聖火ランナーという競技があったとして、そこに選ばれたとして、そして、自分の実力を世界の大舞台で試せるのが、この2021年だけだとして、家族や応援してくれた地元の人々、コーチに恩返しできる唯一無二の機会

 


また、幼い頃からともに切磋琢磨した同じ選手たちも、自分が辞退することで人生で一度あるかないかの出場の機会をなくしてしまうかもしれない場面で、

 


自分から辞退しますか?

聖火ランナーをそれだけのことにしか捉えていないし、全てを犠牲にした特訓とかも必要ないからできるのではないでしょうか?

 


藤井聡太棋士にも問いたいです。

あなたが、小さい頃から夢中になってやって来た将棋の世界大会が、今年あったとして、それに出れるのは、今回か、次は出れないかも知れない状況の中で、理由も明らかにしないままに、辞退できますか?と。

 

別に世界大会でなくてもいいです。
将棋の大会にもう出れるのが人生で今年の一度だけだったとして、辞退できますか?

いま、この状況下に置かれているアスリート達にとっては、人生で一度あるかないかだから、そう例えました。


東京オリンピックに出場の機会を得ているアスリート達は、寝ても覚めても、いつも心臓がバクバクしているでしょう。

出来ないかもしれないという恐怖と、色々なプレッシャーにです。

世論がコロコロ変わる度に一喜一憂しているでしょう。

それでも、選手達や、そのご家族の方々は、「なんとしてでもやって欲しい」と自らの口では決して言えないのです。

出来ることを祈るしかないのです。

「オリンピックなんてどうでもいい、関係ないし興味もない」とする人がいるのなら、ご自身がやっていることに対して、他の方の応援や援助を求めるのは違います。

アスリートたちも、その立場なのですから。

全く同じ立場なのですから。

全く同じ立場で勇気をもらい、勇気を与えているのですから。

想像して欲しいです。

自分のお子さまや愛する方が、他責の事故で、一生付き合っていく障がいを持ってしまい、それでも、ポジティブに奈落の底から立ち上がって、数十年もの間、家族とともにポジティブに歩んで来た道を、全くそうでない環境の方々の言動で外されてしまうかもしれないのです。

それでもアスリート達は自分の口から、絶対やって欲しいとは言えないのです。

自身の身や、ご自身の愛する家族や愛する人に置き換えたら、「森さんの言動に反対ふるために辞退します」とか、「理由は申し上げられませんけれど辞退します」など本当に言えるものなのでしょうか?